小島佐一の世界

The world of Saichi Kojima

小島佐一

(1908年〜1978年)

SAICHI KOJIMA

弊社、小島庭園工務所の作庭スタイルを確立したのが、小島庭園初代喜助から数えて5代目の小島佐一(1908~1978)でした。佐一は弱冠27歳にして宮内庁の御用を賜り、京都御所や桂離宮、修学院離宮のお出入りとなります。
そして70歳で他界するまで生涯を通じて日本各地に名庭を作成した、昭和を代表する庭師の一人といえます。
現在でも弊社では佐一の作品の管理も行っております。

小島佐一の足跡 前編

  • 明治41年(1908年)
    佐一、京都松尾の地にて生誕。(5月17日生)
  • 大正10年(1921年)
    造園技術修得のため、京都岡崎の「植善」茨木徳治郎氏へ修行に出る。
  • 昭和08年(1933年)
    父為治郎死亡により、家に帰り「植為」を継承。
  • 昭和10年(1935年)
    宮内庁御用。京都御所、桂離宮、修学院離宮などのお出入りとなる。
  • 昭和16年(1941年)
    京都府造園協同組合理事兼右京支部長。
    以後32年まで16年間連続8期理事に就任。
  • 昭和26年(1951年)
    二条城の建仁寺垣大改修参加

小島佐一は京都の松尾という場所で生まれました。近くには西芳寺があり、目の前は嵐山から続く桂川、また裏には松尾山が迫ります。子どもの頃からこれらの景勝地や山野で遊んだことが、後の庭づくりに影響します。
尋常小学校を出た後、若くして京都岡崎の「植善」に修行へ。、茨木徳治郎氏のもと八年ほど修行を積みます。そんな折、四代目為治郎急逝により松尾へ帰郷し五代目「植為」を継承。その数年後、佐一は宮内庁の御用達となり、京都御所、桂離宮、修学院離宮など、優れた宮廷庭園の補修に携わるようになります。佐一の妻ヤエによると「桂離宮の全ての景石や樹木の位置などを、頭の中でかなり正確に再現できる。」とのことで、桂離宮については、お庭の全体像を細部に至るまで正確に知り尽くしていたようです。この宮廷庭園管理での経験が作庭の基礎となり、佐一自身に多大な影響を与えました。

桂川沿いより松尾山を望む
松尾山の原生林
「流線形のアーチが美しい『城積』」

小島佐一の足跡 後編

  • 昭和32年(1957年)
    京都府造園協同組合副理事長
    以後42年まで10年間連続5期副理事長に就任
  • 昭和41年(1966年)
    日本造園緑地組合連合会理事
    以後46年同会が(社)日本造園建設業協改組まで5年間連続理事に就任
  • 昭和42年(1967年)
    料亭わらびの里庭園着工(45年完成)
    京都府造園協同組合相談役
  • 昭和43年(1968年)
    万国博会場日本庭園(滝組、流れ及び茶席の作庭に参加)
  • 昭和47年(1972年)
    京都府知事から「京都府伝統産業優秀技術者賞」
  • 昭和49年(1974年)
    労働大臣から「卓越技能賞」
  • 昭和50年(1975年)
    島根足立美術館新館庭園着工
  • 昭和53年(1978年)
    7月8日没、同日「勲六等瑞宝章」

山石を多用するのが佐一の庭の特長で、撒き石や飛石にまで使用しています。苔の乗りが良い山石を好むのは、幼少期より遊んだ寺の印象によるものでしょう。石積については、小さな山石で美しい流線型を描く、城積と呼ばれるものがあります。松尾山を歩いていると割れた小石が層として群積している場所が見られますが、それが城積の着想に繋がったと考えられます。
植木については、山取りの雑木、傾斜地で育った木を用いた植栽が多いのが、佐一のスタイルです。これも松尾山での原生林の風景が、彼の目に焼き付いていたのではないかと思われます。佐一は植木畑で栽培したような、すくすくとまっすぐ成長した木をあまり好みませんでした。「『苦労している木』『頑張る木』を植えている。木と対話して、ここに植えてほしいと木の方から要求される場所に植えている。」というのが、佐一の口癖でした。生育環境が悪い木が成木になっていく姿を、彼はしっかり見据えていました。
建物の近くに大胆に傾斜木を植栽するのも佐一の庭の特徴です。折角の庭が見通しづらくなる場所に、なぜわざわざ植えるのかと思われるかもしれません。実はこの植栽により、庭を樹間から見渡すつくりになります。この構成によって、自分がまるで自然の中に引き込まれているかのような感覚になる効果をねらっています。こうした樹木の配置についても、宮廷庭園で学んだ基礎を踏まえての応用だと考えられます。
生育の悪い木は年を重ねるごとに趣のある木となり、庭に溶け込んでより山野に一近い景色になっていきます。しかしながら、それは決して自然の景色のコピーを目指した庭作りではありません。景色の中に流れ跨や灯篭、竹垣、切石などや柿の木などを巧みに使い、自然と人里の景色を融合させ、一体となって構成した庭をつくりました。あくまでも、庭は人が作る人為的なものであるというのが、佐一の作庭哲学でした。

晩年、当時のお弟子さんたちと
「M邸」
足立美術館
「N邸」

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